今回はちょっと真面目に語っちゃうよ!!
恥パで、ジョルノとブチャラティはお互いに相手のいないところで「信じていた」「信じてもいいと思った」と言っています。そんな2人なのに恥パ作中では会話が一切描かれないところがとってもグッと来るところなんですが、じゃあ、「信じる」って一言で言っても信じるって何だろう?と思いました。
「信頼関係」と一口に言っても色々あります。「自分が相手にかける期待を裏切らない」とか「ウソをつかない」とかもこれに含まれると思います。
ポルポは信頼が最も大切だと言っていましたし、ジョルノとブチャラティがはじめてケーブルカーで対峙したとき、ジョルノは「事故だったと言っても信じてはもらえないんですよね」とブチャラティに言います。先にジョルノがウソをついたからです。
では、ジョルノとブチャラティの関係でいう「信頼」はどうだったか、というと、意外にもアバッキオが答えを言ってたりします。
「ジョルノは 自分をおまえが決して見捨てないってことを信用してるらしいな」(ズッケェロ戦)
本来なら両親からではなく、自分が助けたギャングから、ジョルノは「人を信じる」ということを教わります。ジョルノの生い立ちからして「親から見捨てられた」という絶望がギャングとの出会いによって「自分を見捨てない人間がいるのだ」という希望に、幼いジョルノの中で変わっていったのではないかと思います。その延長線上で「ブチャラティは自分を見捨てない」という信頼に至ったのではないでしょうか。
「自分を見捨てない人がいる」ということは、「自分を信用してくれている人がいる」という安心感を生み、前に進む自信を与えてくれるものです。これまでのジョルノの人生でそこまでの希望を与えてくれる人はいなかったし、ジョルノ自身も相手を選んでいたふしがあったように見受けられます。
唐突に「ボスを倒してこの街を乗っ取るつもりでいる」とブチャラティに語ったとき。
ずいぶん突拍子もないことをするなあと思ったものですが、あの行動ももしかしたらブチャラティを試していたのかもしれません。レミゼの一節に、「盲目にしてしかも愛せられているということは、何も完全なるもののないこの世においては、実に最も美妙な幸福の一である」という言葉があります。要約すると、無条件に愛情(恋愛に限らず)を受けることの幸福をユーゴーさんが語っているのですが、ジョルノもそれに近いことをブチャラティに試したのです。
「ギャングになって街を乗っ取る」などと普通の相手に言おうものなら、笑い飛ばされるかスルーされるか下手したらその場で始末されます。
でも、ブチャラティはそうはしなかった。ジョルノ自身、一人ではどうにもできなかったジョルノの未来展望に「黄金のような夢」という言葉と、彼自身を賭けるとまで言いました。
逆に、康一くんはジョルノが「いい人」と認めたし、康一くんもジョルノと「黄金の意志が受け継がれている」と認めたにもかかわらずジョルノが「ギャングになる」という目的を語った時の反応は原作の通りでした。日本人学生だったら当たり前の反応だとは思いますが。ますます、ジョルノの中ではブチャラティに対する信頼が強くなったに違いありません。じっさいブチャラティと出会ってから、きつめだったジョルノの目つきは心無しか真っすぐになって、輝きが増したような気さえします。
そして、アバッキオが語った信用から始まって、ジョルノとブチャラティの間には「協力関係」というかたちで信頼が結ばれていきます。この記事で語ったように、最終的な目的をほかのみんなに話さなかったあたり、特別な信頼関係だったのでしょう。
上に置いてる絵は、個人的に一番好きなジョルノとブチャラティの距離です。肉体的には接していなくても、その心は常に信頼で結ばれてる(のかな!?)というのが本当に好きです。
この関係は私のジョジョの二次創作でギャグだろうとそうでなかろうと大事にしていきたいなと思っているところの一つです。ちゃんと描いていけたらいいな。できるかな?できるできないではない、やれ!と私は自分を信じつつまた写経に戻ります=≡Σ┌(φ^o^)┐